洋琴倶楽部維新

は四月馬鹿を明日に控えた今夜、一気呵成にこの文を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。
では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。

維新とその経緯(筆者の推測)

維新とは、全てが改まって新しくなることを意味します。
当団体において、何故それが必要であったのか?
当時の回顧録から、和倉(かずくら)使節団それを行った経緯を究明していきます。

出立前の使節団の様子

旧静岡大学洋琴倶楽部

遠江の国、旧浜松高等工業学校(現静岡大学)にて、洋琴倶楽部は平成二十八年に結成をされた。
その当時から、鍛治町にて創業を開始した旧日本楽器(現YAMAHA)へ工場見学視察をしており、精力的に活動をしていることが読み取れる。

当時の記録

しかし、順風満帆に思われた課外活動に暗雲が立ち込める。
令和一年、誰もが予想しなかった未曽有の大厄災が世界を包み込んだ。
当団体もその影響を免れることはできず、団体は瓦解し団員は一名まで減ってしまい、暗黒期へと突入した。

空白の約2年間が当時の記録から読み取れる

令和4年、和倉は瓦解をした洋琴倶楽部と邂逅を果たす。
当時の倶楽部の総裁であった中町との会話はこのように記録されている__
和倉「なして、この倶楽部はこうも閑古鳥が鳴いているのか?」
中町「いかにも、倶楽部の団員が少ないのです。これでは、演奏会を開こうにも開けまい。」
和倉「そうか。では、まずは人を集めることから始めん。」

中町に代わり、和倉は総裁になり、最低限の人数を集めた。
そして、二度と団体が瓦解しないような強い組織作りをするために、精鋭を揃えた和倉使節団を結成した。
使節団は、諸名門洋琴倶楽部への調査を行い100年続く倶楽部のために、奮闘した。
その一部が、かの有名な五箇条の改正文である。

五箇条の改正文

和倉使節団は、コロナ禍のような未曽有の大厄災に襲われても耐えきることができる団体を作り上げるために、五箇条改正文を発布、発令した。

  1. 活動理念の確立
  2. 組織構造の確立
  3. 会則の制定
  4. 練習場所の確保
  5. ウヱブサイトの改革

活動理念の確立は、団体の進むべき方向を記すために。
組織構造の確立は、最低限の団体のするべき仕事を円滑に行うために。
会則の制定は、団体のもめごとを避けるために。
練習場所の確保は、洋琴の練習をするために。
ウヱブサイトの改革は、新しい団員を獲得するために行われたとされている。

この改革により、瓦解をしていた団体は最低限の体裁を保つことになった。
しかし、急進的な改革によって、団員が混乱したという記録も一部存在し、その運営手腕に懐疑的な意見も多い。(民明書房より)

使節団の解体

令和6年、東京帝国企業より招聘を受けた中町は上京をしてしまう。
しかし、自分の慣れ親しんだ倶楽部の発展を見届け、元総裁冥利に尽きるだろう。
ただ…団体の一番華やかな時期を共に過ごせないことを考えると――
畜生、うっかりしているとおれまでも、サンティマンタアルになり兼ねないぞ。

他方で、俱楽部の再構成を完了した和倉は急逝してしまった。
しかし、安らかに眠る彼女の顔は満足そうであった。
以下は、彼女が倶楽部の大学公認化を達成した際に読んだ辞世の句である。

弦断ちて 沖つ白波 洋琴の 音の調べに 焼くや藻塩の
現代語訳:人がいなくなったことで、弦が断たれた洋琴のように団体は瓦解してしまった。
しかし、弦は切れる際に波を立たせ、その洋琴の音が波紋を広げ、多くの人間へと伝わった。
遠江の沖つ白波により育った藻塩を焼くが如く、浜松で育った団体の公認化を私は常に恋焦がれています。1


とうとうどうにか書き上げたぞ。もう夜が明けるのも間はあるまい。
外では寒そうな鶏の声がしているが、折角これを書き上げても、いやに気のふさぐのはどうしたものだ。
再び未曽有の大災厄が団体を襲ったとき、強い団体になっていなければ、再び瓦解することがないとは云えまい。
その時の事を考えると、――いや、その時はまたその時の事だ。おれが今いくら心配した所で、どうにもなる訳のものではない。まあこのままでペンを擱こう。
左様なら。静岡大学洋琴倶楽部。では今夜もあのときのように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退治されて来給え。

  1. 焦がれは、焼くと縁語である。 ↩︎